★ ISHIN no HIKARI ★ 長州美祢維新の光

●幕末の美祢〜 大田・絵堂戦役戦没者顕彰碑

11696886_788943767869463_1116082855_n 金麗社境内にあります。平成27年3月に有志によって建てられた顕彰碑で、それまで顧みられることが少なかった保守派萩軍の戦死者も、諸隊士と同等に顕彰されました。
同じ長州人、同じ日本人が敵味方に別れた戦い。善悪ではなく立場や主義の違いで銃を向けあった彼らを、等しく慰霊・顕彰するのは、繁栄を謳歌する現代の私たちのつとめと言えるでしょう。

*それからの長州藩、そして日本

戦後、2月から3月にかけて藩主毛利敬親がの大田絵堂巡視、村民・諸隊の慰労をおこない、正式に藩の方針が「武備恭順」と定まりました。つまり、表向きは幕府に従う態度を取りつつ、内では戦いも想定して備えをするということです。
幕府は諸外国に対し、長州に武器を売らないよう命じていましたが、長州藩は坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で薩摩藩名義で新式銃を手に入れます。翌慶応2年(1866年)には薩長同盟が締結。
6月、幕府は第二次長州征伐(長州では四境戦争と呼ぶことが多い)を起こしますが、幕府の命令で出兵させられた諸藩には、軍資金も新装備もやる気もありませんでした。逆に長州藩は新式銃と西洋式の戦術、そしてこれまでの実戦経験を持つ諸隊が中心となって、各所で勝利を収めました。
慶応3年(1867年)10月大政奉還、12月王政復古。
慶応4年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いから夏秋の東北・北陸での戊辰戦争を経て、翌明治2年(1869年)5月の箱館戦争終結をもって、維新の動乱は終わりを告げました。
「大田絵堂の戦い」は、逆転しかけていた歴史の歯車を引き戻し、維新へ向かって進む藩論統一のための、大きな意義を持つ内戦だったのです。