★ ISHIN no HIKARI ★ 長州美祢維新の光

●幕末の美祢~ 来嶋又兵衛像

19いよいよ、7月5日(日)の花燃ゆは禁門の変ですね。久坂玄瑞はじめ多くの長州藩士が壮絶な最期を遂げます( ; ; )
「幕末の美祢特集」今回は真打の登場、厚保(あつ)の来嶋又兵衛です!

美祢市立厚保小学校の校庭に立つ像。
昭和9年、地元有志によって建てられましたが、戦時中に金属供出で失われ、平成10 年に再建されました。
陣笠に甲冑と、まるで戦国武者のような堂々とした姿です。ちょっと4等身ですが、引き締まった顔がなかなかイケメンです。厚保小学校の子供たちが、周りを清掃しているとのこと。
平和の中で学び遊ぶ子供たちの姿を毎日見ている又兵衛。何を思っているでしょうか。

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*世外侯養痍隠晦之處碑

「せがいこう・ようい・いんかいのところ」の碑。来島又兵衛の像と並んで、厚保小学校の校庭に建っています。
世外侯とは井上聞多(のちの馨)。養痍隠晦とは「傷を養い、隠れ住む」といった意味です。
井上聞多は元治元年(1864 年)9月25 日夜、山口で刺客に襲われ、全身を斬られて瀕死の重傷を負いました。運良く、外科の心得のある同志、所郁太郎が家を訪れ、あり合わせの畳針で傷を縫合。奇跡的に命を取り留めました。
しかし狙われる身であることには変わりなく、療養しつつ隠れ住んだ場所の一つが、厚保の来嶋家だったのです。実は聞多の妹、厚子の嫁ぎ先はここでした。なんと来嶋又兵衛の息子の奥さんになっていたという縁。
まだまだ治りきらない傷をかかえ、身を隠していた聞多でしたが、長州藩の情勢は大きく変わりつつありました。まもなく彼は諸隊の一つ「鴻城軍」の総督として、再び歴史の表舞台へ引っ張り出されていったのです。あの日死んでもおかしくなかった聞多は、大正4年(1915 年)まで79 年という長い人生を生きました。その忙しい日々の中、厚保の頃を思い出すこともあったことでしょう。