★ ISHIN no HIKARI ★ 長州美祢維新の光

●幕末の美祢〜 大田絵堂戦の終結

17 農民らからの支持も大きい諸隊の連勝を見て、萩でも「いまや正義は諸隊にあり」との風潮が高まってきました。萩政府軍は軍を引き、戦いは諸隊側の圧勝で終結しました。

保守派は政権の座から追われ、藩主毛利敬親は混乱を招いたことを先祖に詫びて、これからは藩の方針を「武備恭順」と定めました。つまり、表向きは幕府に従う態度を取りつつ、内では戦いも想定して備えをするということです。2月から3月にかけて藩主は大田絵堂巡視、村民・諸隊の慰労もおこなっています。

17終結2 この頃、幕府は諸外国に対し、長州に武器を売らないよう命じていましたが、長州藩は坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により薩摩藩名義で新式銃を手に入れます。翌慶応2年(1866年)には薩長同盟が締結。
6月、幕府は第二次長州征伐(長州では四境戦争と呼ぶことが多い)を起こしますが、幕府の命令で出兵させられた諸藩には、軍資金も新装備もやる気もありませんでした。逆に長州藩は新式銃と西洋式の戦術、そしてこれまでの実戦経験を持つ諸隊が中心となって、各所で勝利を収めました。

慶応3年(1867年)10月大政奉還、12月王政復古。
慶応4年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いから夏秋の東北・北陸での戊辰戦争を経て、翌明治2年(1869年)5月の箱館戦争終結をもって、維新の動乱は終わりを告げました。
「大田絵堂の戦い」は、逆転しかけていた歴史の歯車を引き戻し、維新へ向かって進む藩論統一のための、大きな意義を持つ内戦だったのです。