★ ISHIN no HIKARI ★ 長州美祢維新の光

●幕末の美祢〜 萩藩保守派VS高杉等改革派
1月10日午後 大木津・川上の戦い

14大木津・川上の戦い2絵堂と大田を結ぶもう1本の道が、大木津・川上を通るルートです。絵堂-長登-大田ルートとは、間に権現山という小山を挟み、大田の金麗社の近くで合流する地形になっています。
10日午後、萩軍は再び南下、今度はこのルートから攻めてきました。諸隊側はここに地雷を仕掛けていましたが、うまく発火せず、萩軍は勢いを増して南下を続け、遂に金麗社の近くにまで接近してきました。
この時、危機を知った山縣狂介(有朋)は奇兵隊の別働隊を正面からぶつけるのではなく、山を駆け下って萩軍の側面を突いたため、優勢だった萩軍は混乱に陥り、退いていきました。
この日、退却しようとして民家に放火した萩軍撰鋒隊士を諸隊の隊士がとらえ、斬首刑にしています。諸隊には、農民を大切にし、農事の邪魔などもしてはならないという規則がありました。放火は許せなかったのかもしれません。諸隊では、放置されていた萩軍兵の遺体を集めて埋葬するといったこともおこなっています。
さて、この日はかろうじて勝ったものの、諸隊にとって楽観できる状況ではなく、この夜、狂介は金麗社に幹部を集めて、もとどり(髪を結った部分)を切って奉納し、戦勝祈願をしました。

14大木津・川上の戦い写真は、「萩政府本陣跡の門」
絵堂で萩軍が本陣としていた家の門で、柱に銃弾の跡が残っています。諸隊は深夜、ここに戦書を届けると同時に攻撃を開始、寝ていた萩軍は奇襲に驚き、あわてて後退しました。この様子は、土佐の中岡慎太郎も記録を残しています。
1月7日に初戦を飾った諸隊ですが、絵堂は守るに適さない地形だったため、翌日大田まで退いてそこに陣を構えました。
開戦のあとを今に伝える門は、平成17年の道路工事に伴って、200m離れた絵堂開戦記念碑のそばに移築されています。