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●幕末の美祢〜 ざっくりわかる「大田絵堂の戦い」

12大田絵堂2

大田絵堂の戦いは、長州藩の中で起きた半月ばかりの内戦にすぎません。一般には知られざる歴史ですが、しかしその意義は大きなものがあります。簡単に流れをお話ししましょう。
朝廷とうまく付き合って攘夷運動に熱を上げていた長州藩でしたが、文久3年(1863年)8月、会津藩と薩摩藩を中心としたクーデター「八月十八日の政変」で突如京都を追い出されます。そして翌元治元年(1864年)には、6月に池田屋事件で多くの志士を失い、7月には禁門の変(蛤御門の変)を起こして来島又兵衛ら多くの死者を出した上「朝敵」と呼ばれる立場に立たされます。江戸の藩邸は幕府に取り壊され、長州藩士は捕らえられてほぼ全員が表向きは「病死」し、さら同じ7月には幕府による第一次長州征伐開始。8月には攘夷の報復として来航した4カ国連合艦隊に下関を砲撃されて惨敗、と悲劇的な大事件が続発します。
どちらを向いても敵ばかり・負けばかり…と、藩存亡の危機に陥った萩の藩政府は11月、3家老を切腹させ4人の参謀を処刑するという、幕府への超低姿勢をとりました。せっかく作った奇兵隊ら諸隊にも解散命令を出す方向に…。

 

この保守・恭順の藩政府に対して立ち上がったのが高杉晋作です。12月15日、晋作は下関長府の功山寺で、わずか80余名で決起し、物資や藩の軍艦を手中に収めながら勢力を増していきました。これに諸隊も呼応し、藩からの解散命令も無視。藩政府は彼らを追討する命令を出します。
12月28日から29日にかけて、両軍とも軍を前進させ、年が明けた元治2年(1865年、慶応元年)1月6日深夜、遂に諸隊は河原宿を発って、凍る夜道を絵堂の宿場へ向かって進軍開始しました。

1月7日午前2時、開戦。上士を中心に編成された保守派藩政府軍と、下級武士・町民農民で作られた革新派諸隊の戦いでしたが、初戦からすべての戦闘で諸隊が勝ち続けました。また、地元・近隣の庄屋や農民たちも、藩政府の命令を無視して諸隊に食料を提供したり、農兵を組織したり軍夫を出したりと協力しました。
萩でも「今や正義は諸隊にあり」という風潮が強くなり、藩の政権は「武備恭順」を是とする革新派の手に渡りました。藩主毛利公も「これからはそれでゆく」と明言し、以後長州の藩論は統一されて、ぶれることはありませんでした。
戦場となった大田から絵堂にかけては、今も当時を忍ばせる光景がたくさん残っており、想像を膨らませながら巡ってみるのも興味深い一帯です。

【1月7日未明 開戦】

12大田●絵堂戦跡記念碑

大正15年(1926年)に建てられた記念碑です。「一藩勤王の業、これによりて立つ」等刻まれています(原文は漢文)。その頃にはまだ、親や古老から当時のリアルな話を聞いた人たちがたくさんいたことでしょう。